前の曲が終わり、数秒間の静寂の後、
レフトアローンの、もの悲しいアルトサックスに変わった。
「どうしたの?」
幸子を、和幸に隠して楽屋部屋に連れていくために出ていった相馬が店内に戻った時、
和幸は相馬の方を見ずにグラスを揺らしながら、誰に言うでもなく言った。
「雨が強そうなんで鉢を見てきました。落ちたりしているんじゃないかと思いまして」
「そう」和幸は気のない返事をして相馬を見た。
2人のやりとりを見ながら、少し離れたテーブルにいた川口は、
真由美に座ることを促すようにように椅子を引いた。
「すみません。何もお出ししなくて。何がいいですか?」
相馬が川口と真由美の側に近寄りながら声をかけた。
「コーラをいただけますか?」
「何か酒、飲めば?」
「いえ、始発が動いたら帰って企画書をまとめなくてはならないから、いいです」
「だから、それは俺がやるから大丈夫だよ。君は帰ったら少し休んで会社に来てくれればいい。
君が会社に着く頃までにメールで送っておくから」
真由美は目線を移しながら、相馬に言った。
「わかりました。じゃあ、私もバーボンソーダをください」
「かしこまりました」
相馬は仰々しく頭を下げ、カウンターの中に入った。
「聞いててくれ」
真由美に声をかけて川口は和幸の座っているテーブルに戻った。
「もう一度、聞くけど、彼女がいる前で話していいんだね?」
「ああ、もうすぐ彼女と一緒に仕事はしなくなるから、いいよ」
「なんで、そういうことになったんだ?」
川口は、敢えて“どうして殺したんだ?”という言い方はしなかった。
その言い方は、なんとなく躊躇した。
話が進んでいけば、目の前にいる弟が人殺しだということは、すぐに分かる。
しかし、自分の口からは言えなかった。
「店の経営がきつくて、俺の給料が取れなかったんだ。
でも、家に入れる金は作らなきゃならいだろ?
店をやっているといったって水商売に銀行や金融屋は冷たいんだぜ。
闇金で借りたって、ああいう所は10万も出せばいい方で、後は高い金利をむしられる。
でも、金は作らなきゃならない。で…」
「なんか、やばいことに手を出したんだな?」
「ああ、シャブの取引に手を出した」
「馬鹿じゃねえか!」
思わず川口は叫んで、グラスを叩き置いた。
勢いで氷と酒が飛び、川口の手とテーブルを濡らした。
幸子が陰で聞いている。さっきの和幸の態度、幸子がいることを知っているのだろうか?
知らなかったとしても、もう遅かった。
膿を出し切らせるようにすべての本当のことを話させよう。川口は思った。
真由美も聞いている。もう、後戻りはできない。
「そんなことをする位なら、幸子さんに言ってなんとか生活費を待ってもらえなかったのか?」
「兄さんらしい考え方だね。一美さん、昔、言ってたもんね。
必要最低限のお金しか家に入れなくて、
後は全部自分で遣ってるって幸子にこぼしてた時あったもんね」
「俺のことはいいよ」
話を遮って真由美をチラっと見た。こちらを見てはいなかった。
「俺、兄さんと違ってあんまりいい形で結婚したわけじゃないからさ、
あいつに苦労させたくなかったのと、
俺自身が、毎月きちっと金を入れる旦那をやりたかったんだ」
「そんなのは、ただのエエカッコシイだろ?それで犯罪に手を出したんじゃ、
もっと酷いんじゃないか?現に、今こういうことになってるんだから」
「そうだね。でも、小さい頃から、俺ってあんまりいいことなかったでしょ?」
父親が会社を倒産させた時、まだ高校生だった和幸は、
学費を稼ぐためにアルバイトをはじめた。知り合いの喫茶店のウエイター。
高校生だから大した稼ぎにもならず、アルバイト先ではイジメにも遭った。
母親がそれを不憫に思って泣いていたことを思い出した。
川口は、すでに大学に入っていてアルバイトをしていたが、
高校生のバイトがどれくらいきついのかは、当時は分からなかった。
「だから、よくある話だけど、やっと持った所帯を大事にしたかったんだ。
金の苦労はさせたくない。父さん、よく金の苦労させてたもんね、母さんに」
川口は言葉がなかった。最近、自分の生き方が父親に似ているなと思うときがある。
和幸もそうだが、
独立は父親の血なのかも知れない。
そう思うと、失敗をした父親と自分とがダブった。俺も、奔放なのかもしれない。
その奔放な俺と父親の陰で、いつも和幸は我慢をしてきたのかもしれない。
「金がどうしようもなかった時に、店に時々来てた裏金融屋の人に頼んだら、
○○会が最近、警察に目をつけられていて取引が思うようにいかないから、
カタギの人間で口が堅いのを探しているってことで紹介されたんだ。
ようするに企業舎弟になれってことだよ」
「で、なったのか…」
「ああ、ミカジメ料なし、取引一件で手数料、
で、手付けに200万をよこすっていうんで、手を出した。
ほんとは、店もなんとかなりそうだったから、その200だけあれば良かったんだけどね」
「そうはいかねえだろ。金も受け取って、相手は極道だから」
「最初は俺も後悔したよ。でも、毎月きちんと金になる。
○○会も完全に俺を企業舎弟として、準構成員って感じになっていったんだ」
弟がヤクザもんの手下になった。
それだけでも川口はどうにもならないような怒りと虚脱感を感じた。
「で、あるでかい取引の時に、相手の組が裏切ってドンパチになった。
俺はビビって隠れてたんだけど、チャカ渡されて自分のことは自分でなんとかしろって言われて、
その時、相手の組の若い奴がこっちに向かってきた。
で、目をつぶって撃ったら、腹に当たっちまったんだ。」
「それがどうして傷害致死なんだよ。殺しじゃねえか。
それとチャカっていうな、お前はカタギなんだから、拳銃って言え!」
罵倒するように言った。
「カタギね…」和幸は、ふっと笑って、空になったグラスを見た。
隠れている幸子は、真由美は、これを聞いてどう思うのだろうか?
「それを精算するために自首するんだな…」
これ以上、詳しいことは、幸子にも真由美にも聞かせたくなかった。
いや、川口自身が聞きたくなかったのかもしれない。
「うん。ただ、この年になると色々精算しなくちゃならないことがたくさんあってね。
親しい人達に来てもらっていろいろお願いしているんだ。で、兄さんが最後ってわけ」
「分かった。俺は何をすればいいんだ?」
沈黙が流れた。時間にすればそんなに長くはなかったのかもしれないが、
途方もなく長い時間に感じた。
和幸は、先刻から少し離れたテーブルにいる相馬を凝視していた。
そして相馬からゆっくりと視線を川口に移しながら、話し始めた。
「兄さんには…」
相馬は、何かを言いたそうで、しかしそれを飲み込むような複雑な表情で、
川口と和幸の両方を交互に見ていた。
(つづく)
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